その年の夏は酷く暑かった。
 今になって思えば、その年の夏は異様なほどに暑かった。
 夏の初め、兄が「今年の夏は暑くなりそうだ」と言った時、俺はその事についてあまり深く考えなかった。
 砂漠の夏は大概暑いものだったし、他の地域に比べればずっと暑かったのだから、多少の差があっても無いに等しかったのだ。
 それなのに、何故か兄の言葉は心にちらりと引っ掛かった。否、引っ掛かったのは言葉自体ではなく、恐らくそう言った時の彼の表情だったのかも知れない。
 兎に角、その年の夏は異様なほどに暑かった。そして、その事に感知していれば、或いはその先の出来事も何かしら変化していたのかも知れなかったのだ。
 それとも、何も変化などしなかっただろうか?
 兄は常に三歩先を歩いていたし、にも係わらず彼は汗一つ掻かず涼しい顔をしていたのだから。



運 命 〜 さ だ め 〜




<1>



 サウスフィガロで古い友人に再会したのは、ちょうど雨の季節だった。
 彼は、サウスフィガロの道場の一つで修業していた知り合いで、実家の事情で故郷へ戻って以来、会うのは久しぶりだった。
 お互い酒も解禁になったことだしと、まだ日暮れには間があったが、適当な酒場に入った。
「故郷に戻ってどうしてた?」
「家の仕事を手伝ってたんだ」
 彼は眉を上げて笑った。
「ぱっとしないさ。田舎で家業を継ぐなんざ」
「そんなことはないだろう。羨ましい話だよ」
「あんたの方はどうしてた?」
 俺も困ったように笑った。どう説明していいのか良く分からない。
「色々あったさ」
「色々、か。戦争は?」
「そうだなぁ……」
 唸りながら、こめかみ辺りを掻く。
「まぁ、巻き込まれないほうがおかしいな」
 彼は苦笑した。
「あれは酷かった」
「ああ」
 俺も同意した。
「うちの国でも随分犠牲者が出てね、幸い家族は無事だったがな」
 彼はそう言って、肩を竦めた。
「そういえば、あんたの国はフィガロだったな」
 修行時代には出自についてあまり触れることが無かった。だから、彼は俺がフィガロの出身であることは知っていたが、王家の人間であることまでは知らないはずだった。
 俺はグラスを傾けながら頷いた。
「国には戻ってなかったのか? フィガロも飛んだ災難だったそうじゃないか」
「その時には戻ってなかった」
「それなら、万事息災ってわけだな。家族は?」
「兄貴が一人。無事だよ」
「ふぅん、そいつは良かった」
 彼はグラスを掲げた。
「あんたとあんたの家族と、故郷に」
「故郷に」
 その時、俺はふと、戦時下の豪奢な会食を思い出した。
「しかし、故郷と言っても」
 彼は一口酒を含むと、また喋り出した。
「一難去ってまた一難だな」
 意味が分からず、俺は目を見開いて彼を見つめた。
「どういう意味だ?」
「フィガロの国王は独裁だって言うじゃないか」
 一瞬、飲みかけた酒を吸い込みそうになって咽かけたが、何とか堪えた。
「何だって?」
「そこら中の噂だよ。帝国が滅んでからこちら、王国と呼ばれる国はフィガロだけになったろ? エドガー王はここぞとばかりに権力を振り回してるんだろうってさ」
「根も葉もない噂だな、そりゃ」
「そうなのか」
 彼はふん、と鼻を鳴らした。
「まぁ、フィガロ出身のあんたがそう言うなら、ただの噂だろうが。火の無いところに煙は立たぬとも言うけどな」
 彼は片眉を上げて笑った。
「はは、冗談さ」


 兄が批判されるのを聞いたのは、実はこれが初めてではなかった。
 若すぎると懸念する人、「女好き」の国王に目くじらを立てる人、それに。
 「弟を追い出してまで国王の地位に就きたがった」と邪推する人。
 その言葉を耳にした時、胸に刺さった棘はあまりにも鋭かった。自分のせいで兄が悪く言われるのは、どうにも居たたまれない。
 本当は、兄を国王の椅子に押さえ付けてまで、自由を手にしたのだ――彼の弟は。



***



<フィガロ城 王の間>  ―――マシアス王子の手記に非ず


「どういう意味だ」
 珍しく厳つい声を出した君主に、ふと衛兵の一人が顔を上げた。
「マッシュがサウスフィガロであなたの噂を流しているという、匿名の申し出があったと言っただけですよ」
 限りなく穏やかな口調で、神官長は諭した。
「そんな出所も分からないような話を、なぜ俺のところまで上げる」
「本当でも嘘でも、問題なことに変わりはありません」
 不機嫌な君主はそっぽを向いた。
「聞きたくない」
「どうしてですか?」
 聞き返され、エドガーは黙った。
「マッシュをお呼びになって、どういうことか説明していただくべきかと存じます」
「必要ない」
「必要ないことはないでしょう」
「どんな噂だか知らないが、あいつとは関係ない」
 神官長は眉を上げた。
「あなたの女性遍歴を国民に洗いざらい晒されてもよろしいと言うことですか?」
 その言葉に、エドガーが不意に目を光らせた。
「ふぅん――そういう噂が流されてるのか?」
「……例えばの話です」
 神官長は、噂の内容を話したくはなかった。
 「兄が自分の命を狙っているらしい」などと、あの子が吹聴するはずはなかった。ただ、そんな噂を誰かが流しているとすれば――
「とにかく、城にお呼びなさいまし」
 それが一番安心だと思われた。少なくとも、城に居れば皆して守ってやることができるのだ。
 あの子のことも……その兄のことも。
「私が間違ったことを申し上げたことがありますか、エドガー?」
「うーん」
 彼は頬杖を付くと、考え込んだ。
「でも、ただ呼び寄せただけで帰ってくるかな」
「ならば」
 さっきの衛兵がふと主の元へ歩み寄った。
「恐れながら、考えがございます」
「なんだ」
 エドガーは興味深そうに問いかけた。
「十三年前に起きた混乱で、尊くも命を懸けて先王様や陛下をお守りした剣士たちが在ったと存じます」
 神官長は、国王の表情が僅かに動いたのを感じた。十三年前、彼にとっては思い出すことも苦痛な事件。
 しかし、仕えて間もない衛兵に、主の表情の変化は読めなかった。
「その者たちの慰霊祭をされてはいかがでしょう? それならば、マッシュ様をお呼び寄せになる良いきっかけになるかと」
「どうだろうな、今更その話を蒸し返すのも」
 エドガーは気乗りしない声でそう言った。
「その話……ですか?」
 若い衛兵は怪訝そうな顔をした。それはそうだ、彼は「その話」を知らないのだろう。そう、あの話は王宮から外に出ることはなかったのだから。
 城は暴走したモンスターに襲われ、数名の剣士などが王やその息子たちを庇って死んだことになっていた。その場にいた王弟は精神的な衝撃を受け病に臥せてしまい、二度と姿を見せなかった――そして、やがて自ら命を絶ったのだと。
 しかし、本当はそうではなかったのだ。
 それでも、真実を知らない人間からしてみれば、あの事件を遠ざけ続けている王宮側の対応には、首を傾げる部分があるに違いなかった。
「陛下は、あの事件のことはもうお忘れになりたいのですよ。ご親戚も亡くなった事件ですから」
 神官長が静かに説き伏せた。
「……そうでした。申し訳ありません」
 衛兵は心から済まなそうに深く頭を下げた。
 しかし、
「いや、確かに慰霊をするには良い時期だろう」
 エドガーはそう言った。神官長が驚いて顔を上げたのを微かに感じる。
「そんな口実を作られれば、さすがにあいつも帰ってくるだろうしな」
「しかし……」
 神官長は不安げに言いかけて、口を噤んだ。


 確かに、それに反対する理由がなかった。









NEXT       Novels       TOP