<3>



 港町ニケア。
 本当は、ここからフィガロへ帰るのはとても簡単だ。
 それでも、俺はこの町から先へ行く気にはなれなかった。何より、ここにいればフィガロの状況を知ることが出来るし、時折は噂話も紛れ込んでくる。
 俺は、ロックとセリスの新居に世話になっていた。邪魔者であることは百も承知であったが、もし何かあれば、これほど頼りになる二人もいないだろう。


 あれから、フィガロは大騒ぎになっていた。それは俺にも手に取るよう、見えるかのようだった。
 慰霊祭で何者かが国王の命を狙った。
 王室への恨みか、帝国の残党か。はたまた。
 嫌な噂を耳にした。それは、セリスが教えてくれた。
「例の刺客、あなたが差し向けたってことになってるわよ。どういうこと?」
 彼女は目を丸くして尋ねてきた。
 なんとも答え難かった。それが他の誰かに聞かれたのなら「そんなことを俺がするはずない」と突っぱねたが、彼女にそう言ったところで、そんなことは今更知れたことだった。
「ゴシップ記事の言うことなんか、誰も信じないでしょうけどね」
「そうかな」
 俺は小さく呟いた。
 それで、兄は俺を逃がしたのだろうか。
 セリスは、テーブルに放ってあった新聞の記事をちらりと盗み見た。
「帝国の残党か……私もそうなるのかな」
「まさか!」
 思わず顔を上げ、俺はセリスを見た。
「誰もそんなこと思わないさ。セリスが先頭を切って世界を救ったんだぜ?」
 しかしセリスは答えず、何かを考えているようだった。
 そこへ、ロックが帰ってくる。
「すげぇ話聞いちゃったよ」
 彼は開口一番、渋い顔でそう言った。
「何?」
 セリスが思惑顔で聞く。
「フィガロの話。例の暗殺者、エドガーが自分で仕向けたんじゃないかとさ」
「――!」
 立ち上がった隙に、今まで座っていた椅子が倒れて転がった音がした。
「怪我をしないために女を選んだとか、わざわざ派手な演出で目立たせたとか、マッシュに疑いを向けさせるためだった……とかさ。想像力逞しいな」
「馬鹿な話」
 セリスが一蹴した。



***



<港町ニケア ロックとセリスの家>  ―――マシアス王子の手記に非ず


「マッシュは?」
「寝かしてきた。かなり参ってるな、ありゃ」
 ロックは空っぽになった酒ビンをドンとテーブルの上に置き、ダイニングに座った。
 そして、二人は黙り込んだ。


 セリスが考えていたこと。
 もしマッシュがエドガーを殺すとすれば、わざわざ刺客など立てずに自分でやるだろうこと。エドガーがマッシュに嫌疑をかけるためなら、わざとらしい刺客を使った寸劇などという、遠回しなことはしないだろうこと。
 しかし、それならなぜ彼は弟を国から追い払ったのだろう。
 疑いが向けられることを予測したから? それでも、その場にいなければ申し開きもできないのに。まるで欠席裁判だ。
 そこまで考えて、セリスは身震いした。
 なんてことを考えてるんだろう、エドガーとマッシュがお互いに、そんなことをするわけもないのに。


 その間、ロックが考えていたことはもっと単純だった。


 ――犯人は、誰だ?



***



<フィガロ城 国王の自室>  ―――マシアス王子の手記に非ず


「エドガー」
 神官長に呼ばれ、その主は鷹揚と顔を上げた。
「困ったね、ばあや。女性関係の私怨じゃないかとは、穏やかじゃないな」
「どちらにしたって穏やかじゃありませんよ」
 神官長はぴしゃりと跳ね除けた。
「マッシュをお逃がしにな――」
「ばあや、これは見た? 俺の隠れファンじゃないかとさ。今流行のストーカー?」
「エドガー!」
 ますます怖い声になった神官長に、ようやく肩を竦めて黙った。
「なんだい」
「お逃がしになったのは、どういうことですか」
 と、神官長はさっきの続きから一語一句逃さず続けた。
「どういうことだと思う?」
 エドガーの青い目が、少年のそれのようにきらりと光った。
「お戯れになっている場合では」
「確か、あれはばあやだったよね」
 エドガーが突然立ち上がり、神官長は何のことかと彼を見上げた。
「『マッシュがサウスフィガロであなたの噂を流しているという、匿名の申し出があった』」
 今度は、エドガーが一語一句逃さない番だった。
 神官長は何を言われているのか、俄かには理解していないようだった。
「あれ、忘れたかな」
「……いいえ、覚えておりますよ」
「『匿名の申し出』と言ったけど、一体どこの筋から聞いてきたんだい」
「配下の神官が――もちろん、出の知れた娘ですよ。彼女は国民からの投書などを管理する役職についております」
「ふーん。キレイな娘?」
「エドガー」
 怖い声で呼ばれ、彼はクスクスと笑った。
「冗談だよ。それで、投書は匿名だった」
「左様です」
「けど、気味が悪いからばあやに報告した」
「はい」
「そしてばあやが俺に報告した。『女性遍歴を国民に洗いざらい晒されてもよろしいと言うことですか』――立派な脅し文句だね」
 そんなつもりは、と、彼女は口籠った。
「あなたは、私を疑っておいでですか」
「まさか。ばあやが俺を殺したいなら、そんなの簡単さ。手段はいくらでもある」
 エドガーが暢気にそう言うので、神官長の方が震え上がった。
「怖いことをおっしゃらないで下さい」
「はは、国王が命を狙われることに恐れ慄いていたら、毎日暮らせるはずもないだろう」
 彼は、そう言って退けた。


 そう、この城の中にいる人間ならば、彼を殺そうと思えば簡単なのだ。
 彼の父がそうであったように。



***



「目的は、マッシュに疑いをかけることだったと思うの」
 セリスは、サラダにドレッシングをかけながらそう言った。
 いっそ気持ちのいいくらい晴れ渡った朝で、港では鴎が猫のように鳴いていた。
「分からないのは、それで誰が得をするのかということよ」
「思い付かないか?」
「……全然」
 俺は沈んだ声で言った。
 正直、何だかもうどうでもいい気分だった。
 もし俺に疑いをかけ、城を追い出すことを目的とするなら、その得体の知れない誰かの望みは叶ったわけだ。
 それで兄に危害が及ばないなら、他に願うことは何もなかった。
「ロックは?」
「俺? わかんねぇよ、そんなの」
「そうよねぇ」
 二人は、まるでサスペンス小説の中身についてでも話しているかのような口ぶりだった。
「誰かに恨まれるようなことはないの、マッシュ?」
「さぁ……俺、城にはずっといなかったし」
「城の外で、ってこともあるだろ」
「外……?」
 生まれてこの方、城以外に俺が居たところは一つしかなかったし、そこに、俺がフィガロを追われることを望んだ人間など誰もいないだろうことは、容易に想像できた。

 でも、恨まれている人間なら、一人だけいたかもしれない。

 俺はふと、そう思いついた。
「何?」
 気付くと、ロックとセリスが興味深げに見ていた。
「いや……何も」
「何か思い出した?」
「隠さないで話した方がいいぜ?」
 身を乗り出して聞いてくるロックとセリス。
 ――頼りになる二人だと思ったことは、撤回したいと俺は思った。






 王位に就いた兄。国民から慕われる兄。人徳があり、才知に富んだ兄。
 王位に就いた兄を恨む弟。国民から慕われる兄を妬む弟。愚鈍な自分を詰る弟。

 弟は、兄に切っ先を向ける。亡き者にしようと企てる。
 そして、たくさんの騎士に守られた兄は生き残り、反逆者の弟は絞首台に。

 王位に就いた兄。
 恨む――弟。

 そのストーリーを准えるなら、その必要があるとしたら。
 自分を、兄を、恨むとしたら。


 俺は、はっとして立ち上がった。突然、鳩尾の辺りが酷く痛んで、体中が警告を発し出した。
 双子であるが故、お互いにしか分からない、お互いの危機。
 駄目だ、行かなければ。このままここでのうのうとしているなんて、もう出来ない!









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