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<フィガロ城 国王の自室> ―――マシアス王子の手記に非ず
鋭い銀のラインが弧を描き、ぴたりと止まるは国王の首筋。白く、日焼けを知らない肌に、細く赤い滲みが浮かんだ。
エドガーは小さく息を呑み、歩を止めた。
彼は、凶器を握る手の先を確かめはしなかった。
「来ると思ってたよ」
見もしない相手にそう語りかける。彼にとっては、それは見るまでもない『現実』であった。
「さすがは従兄殿……とでも言うべきですか」
相手の男は酷く乾いた声でそう呟いた。
「それとも、ご希望通り参上いたしましたと言うべきですか」
彼は小さく詰まった様な声で、クク、と哂った。
「随分と風貌が変わられたようだね、ジルベール」
「楽しかったですよ、修行は」
それでエドガーが一瞬驚いた目をしたのを、彼の従弟は見逃さなかった。
「そこまでは思い至らなかったですか、さしもの国王陛下も」
「まさか、マッシュに……」
エドガーが振り向き、やっとその男が視界に入った。
目が黒かったのは元々だった。叔父は金髪碧眼の妻には恵まれなかったのだ。それでも、薄茶の髪は金色に見えなくもなかったし、何より美しいウェーブを描いていて、元々は綺麗な少年だった。
それが、目の前に佇む男は、肌が浅黒く荒れ、髪はほとんど黒く、いつぞやかに短く刈ったせいか、真っ直ぐな硬い髪をしていた。
ふっくらとして子供らしかった頬は削ぎ落とされ、獣人のような色を乗せていた。
エドガーは、こんな時でさえそれを痛ましがった。
あの事件の発起人、叔父フランシスの一人息子は、城を逃げ出したまま行方が知れなかったのだ。
――今の、今まで。
「大変人の良い従兄君でしたよ、マシアス従兄様は」
男は小さく笑った。
「彼は、私には全く気付かなかった」
「そうだろうな」
人を疑うことを知らないのだ、あいつは。エドガーは口の中だけで呟いた。
「それでも、念のため二年ほどで彼の元を去りましたよ。ああ、ご心配なさらずとも、彼には手出ししていませんとも。王族を去った従兄殿に、用はありませんでしたから」
それなのに、とジルベールの声は高くなった。
「おめおめと自分から火に入るとは、マシアス従兄様は勘が鈍い」
「そうじゃない」
エドガーが不意に、はっきりと否定した。
「勘が悪くてここへ帰ってきたわけじゃない。俺がそう仕向けたんだ」
「それでご自分の首をお締めになったわけだ、エドガー従兄様は」
「そういうことになるな」
興深そうに、エドガーが頷いた。
「端からそのつもりだったから。確かめてみる価値はあった」
神官長から聞いた噂話、慰霊祭、暗殺未遂。
その先に潜む彼の存在。
エドガーは、それを確かめてみたかった。
「それで、ご気分は、従兄殿」
「哀しいよ」
「ほう」
ジルベールは可笑しそうに鼻を鳴らした。
「昔、命を奪った叔父の息子に殺されることが?」
実際には彼がその命を奪ったわけではなかったが、エドガーは否定しないでおいた。ただ、
「運命を呪う、という意味さ」
そう言って、瞼を閉じた。
「昔はあんなに仲良くしていたのにね」
「昔の話だ」
「……そうさ」
エドガーは溜め息を吐いた。
「みんな昔の話だよ。父上と叔父上は仲の良い兄弟だった。それなのに、お祖父様は二人を平等に愛しはしなかった。なぜ? 父上は本当の息子だったが、叔父上はそうではなかったからだ」
「何を」
黒い瞳がキュッと細められた。
彼は、知らなかったのだろうか。知っていたが、我々が知っているとは思わなかったのだろうか。エドガーは一瞬だけそう思い巡らした。
「父上は、叔父上を追放せよというお祖父様の言葉に反して、城に居て欲しいと言った。そしてそれが、結局は自分の首を絞めたのだ」
ふと窓の外に慣れた気配を感じ、エドガーは小さく溜め息をついた。
まったく、あいつは。
予測していたことではあったが、エドガーは眉間に微かな皺を寄せた。
「父上は、叔父上の命を奪わなければならない状況に陥った。父上は自分の行動を省み、君のことも幽閉することにした。でも、今度はそれを私が良しとしなかった。
ある夜、私は君の部屋の鍵を開け、逃げろと言った。小さな君は戸惑って、父さまはどこ、と呟いた。私はそれで、君が何も知らされていないのだと思い至ったんだよ。
哀しむべくは我らの運命さ。他の何も、私は惜しまないし、哀しまない。君が私の命を欲しいと言うのなら、喜んで差し出すさ」
ただ、とエドガーは続けた。
「あいつはそうもいかないんだろうが」
その瞬間、窓が吹き飛ばされるかのごとく開け放たれ、その中から大きな黒い影が沸いて出た。
***
一瞬、間に合わなかったのかと思った。
兄の部屋は真っ暗だった。しかし、窓の側へ寄ると話し声が聞こえ、それが兄の声だったので胸を撫で下ろした。
部屋の中にはもう一人いて、それは……ああ、俺は彼を知っていた。想定していた人間ではなかった――と、その時の俺は思った――が、確かに俺は彼を知っていたのだ。
兄が、男に向かって両手を広げた。命を欲しいと言うのなら、喜んで差し出すさ、と言ったのが聞こえ、もうこれ以上待つことは出来ぬと窓を蹴り開けた。
「ギル」
それが、男の名だった。
彼は俺を見た。兄の喉元に突き付けた片刃の剣がぐっと力を増し、兄が小さく呻いた。
「ご機嫌麗しゅう、マシアス従兄様」
慇懃にそう言われ、俺は一瞬呆けたようになった。
俺には、従兄弟は一人しかいなかった。
「ジルベール……?」
彼は愉快そうに、ふふ、と笑った。
「やっと気付きましたか、従兄殿?」
「まさか――!」
その男のどこにも、あの少年の面影は見当たらなかった。
しかし、俺たち兄弟を恨む人間がいるとしたら、たぶん彼しかいないと思ったのもまた真実だった。
「そろそろお出でになると思ってましたよ。貴方なら放って置きはしないだろうと――あの噂を」
「噂……」
あまりにたくさんの噂を聞きすぎていたので、どの噂であるかを俄かには思い出し難かった。
「バンダナの青年に吹き込ませてもらいました。面白いほど良く人を信じる瞳をしていたので」
――ロック。
「もちろん、人を介しましたがね」
「抜かりないわけだ」
兄が呟いた。
「彼は簡単に騙されるような人間じゃないよ、ジルベール」
信じ難いという顔で、彼は兄を見下ろした。その目は馬鹿にしたような光を湛えていた。
「ついでに聞いておくけれど、私を襲わせたレディはどうしたんだい」
「ふふ、さすがフェミニストの従兄殿。ご心配召されますな、あれは私の家内です」
苦悩の表情で目を閉じると、兄は微かに息を吐いた。
「もう一つ聞いておく。衛兵をどうやって忍び込ませた」
「簡単なことですよ」
ジルベールは含んだような笑い声を立てた。
「妻の親戚の遠縁に、お偉方と通じる縁があったのでね。近衛に昇進するまで、随分待ちましたよ」
「どうしてこんな……」
俺は、途方に暮れた声で呟いた。こんなことをしても、苦しむ人が生まれるだけで、誰も幸せにはなれないのに。
「この十三年、私は私の父の死について、常に考えてきました。父の罪を考え、自分の存在を疎ましくも思いました。それなのに、貴方々はまるで施しでも与えるかのように、あの事を隠し続けてきた。聖人のような顔をして」
「それで、君は普通の生活が出来たはずだ」
兄が言うと、首元に突きつけられたナイフに苦しげだったその表情が、ますます顰められた。
「普通の生活? 出来る筈もなかった。私も、貴方々と同様の温室で育ったのですから」
「でも、修行先には馴染んでいたじゃないか」
俺が言い募ると、彼はキッと睨み付けてきた。
「兄上を人質にされていることを、お忘れなく」
俺には分からなかった。兄はその腕を振り払おうと思えば、出来るのではないかと思った。確かにジルベールは体格は良かったが、久しく修行には身を置いていないのだろう、現役の武道家よりはずっと動きも鈍かったし、力も弱いはずだった。
「何が望みだ」
兄が、掠れた声で最後にそう聞いた。白い首に血が滲んで、俺は、それだけで心の内が動揺するのを感じた。
「死んでください、私のために」
「私が死んでも、次の王位継承者は……」
「お二人ともです、従兄殿」
兄の溜め息が聞こえた。それで、俺を遠ざけたがっていた理由が分かった。
どうして、いつも自分のことは棚に上げて、弟ばかりを庇おうとするのだろう、この兄は。
「一人で全部、片を付けられると思うのか?」
兄は相変わらず、痛みを堪えた掠れ声で続けた。
「――私たちだって、ぼんやり生きてきたわけじゃない」
「もちろん、承知しています」
ジルベールは相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、頷いた。
「私の喉を掻き切っても、マッシュが君を許さないだろうさ」
「でしょうね」
彼は俺を見上げた。緊張が走って、俺は喉を鳴らした。
こんなのは嫌だ。体の奥底から、誰かが叫び声を上げ続けているのを聞いた。
「何も、私が生き残る必要はないのです。私には子がありますから」
その時、一瞬兄は諦めたような表情になった。本当に一瞬のことではあったが、見紛うはずはなかった。
「最も、そんなヘマをするには及ばないでしょうが」
次の瞬間、兄は俺を見た。
兄は、俺だけを助けようと考えているらしかった。
そして、俺にはそれを認めることは出来なかった。
それを悟った兄が、瞳だけで溜め息を吐いたのが分かった。
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