<3>



 ファルコンのエンジンルームは既にひんやりと冷え切っていた。一つ一つ、指で触れながら状態を確かめていく。
 しんと静まった金属のつるりとした感触。指に沁み込んで来るような冷たさ。それはいつも俺に、あいつを思い出させた。
 古くなったネジを交換し、調子を確認すると、俺はエンジンルームから出た。


 二度目に出会ったのは、最初にあの本を渡されてから、何年か経った後だった。


 あれから俺は、その本を元に飛空艇のエンジンを造り始めた。最初はママゴトみたいなことから始まった。段々のめり込んで、次は本格的に組み立ててみたくなった。何をどうやっても全く上手くいかなかったが、それでも飽きずに何度も試した。
 町の外れの空き家に入り込んで、一部屋に収まらないような機械を黙々と造った。その頃はロクでもない知り合いが多くて、夜毎馬鹿げた遊びに誘われたが、俺が気違いじみたことを始めたと見ると、やがて誰も近づかなくなった。
 部品を買う金はなかった。廃材をかっぱらったりして間に合わせたが、どうしても買わなければ手に入らないような部品もあった。
 俺はどうしようもなくなって、手っ取り早く金を稼げそうな仕事を探した。
 エンジンが完成するなら、何をしてもいいと思ったのだ。



 緑色の目はじっと、俺を見定めていた。
 俺は、声も出せずに立ち尽くしていた。それは、隅々まで磨かれたような、煌びやかな女だった。どうしてこんな綺麗な女が、男娼なんて買う必要があるのか全く分からなかった。
 俺は黙ったまま、あの本のことを思い出していた。
「ねぇ、そのままでいるつもり?」
 女は抑揚のない声でそう言った。
「あんまり若い男には興味がないって言ったはずなんだけど」
 そう言って物憂げに溜め息を吐くと、ごろりとソファに寝転がった。
「いつもこんなことしてるのか」
 俺は訊いた。胸の辺りがもやもやと、黒い雲で覆われたような気分がした。
「何、説教でもするつもり、坊や」
「あんたには似合わない」
「似合う似合わないは関係ないのよ、坊や。求めるか求めないか、人を動かすのはそれだけ」
 クスリ、とあいつは笑った。
「ねぇ、ずっとそこでぼんやり突っ立ってるつもり? ここに座ったら」
 自分が寝そべっているソファの向かい側を俺に勧め、するりと起き上がって、グラスを二つテーブルに置いた。
「お酒、飲める?」
「馬鹿にするな」
「あら、そう」
 可笑しそうに笑うと、琥珀色をした液体をグラスに注いだ。
「あんたこそ、こういうこといつもしてるの?」
 グラスを手渡しながら、ダリルはまるで小さな子供にでも話しかけるような声で、そう尋ねてきた。
 俺は黙ったまま答えなかった。
「可愛い顔して、悪いイタズラばっかりしてるわけ?」
「……誰が『可愛い』かよ」
「あら、可愛いわよ。ちゃんと鏡見てみなさいよ」
 ダリルはクスリと笑った。
「あたしはね、お金持ちで羽振りがよくて、話が上手な人が好きなのね」
 含めるような声色で、ダリルはそう続けた。
「できればうんと年上の人がいいわけ」
 真っ赤に塗った指先が一点の曇りもないグラスを持ち上げ、同じくらいに赤い唇に寄せるのを俺はじっと見ていた。
「だから」
 コクリ、と喉が動くのと同時に、頭の中のどこかが激しく叩き割られたような感覚がした。
「悪いけど、帰ってくれる?」
 ――それで、もう少しで聞き逃すところだった。
「何だと?」
 俺は一瞬目を見開いた。
「あんたみたいなサクランボ坊やに用はないのよ」
 言われた言葉も言葉だったが、帰るわけにもいかなかった俺はカッとなって立ち上がった。
「ふざけんな! こっちだって暇じゃねぇんだよ!」
「あら、そんなに怒らないでよ」
 指先がグラスを離れ、俺の腕にやんわりと触れた。
「お金ならあげるわ」
 その一言が更に俺のプライドを傷つけた。
「馬鹿にするな」
 腕を振り払うと、俺は力一杯あいつを睨みつけてやった。
「そんなもんいらねぇよ!」
 ダリルはきょとりとした顔をして俺を見ていたが、やがてゲラゲラと笑い出した。
「あはははは! 面白いねあんた!」
 本気でムカつく女だと思った。
 ますますカッとなった俺は、部屋を出て行こうと踵を返した、が。
「待ってよ」
 再び腕に指を絡められ、俺はそれで一歩も動けなくなった。
「遊んでいけば? あんたのこと、気に入ったわ」



***



「ホントは初めてなんでしょ、坊や」
 全てが済んだ後、シーツの上に寝転んだまま、ダリルはクスリと笑いながらそう言った。
「可愛いのね」
 俺は気まずくて顔を逸らしたまま、窓の外に滲んだ街明かりを見ていた。
「やめときなさい。あんたみたいなのが踏み込む世界じゃないのよ、ココは」
「金がねぇから仕方ねぇんだよ」
 俺は溜め息混じりに呟いた。
「そんなにお金が要るの」
 訊かれ、俺は小さく頷いた。
「何に使うの?」
 ダリルは俺の髪を弄りながら尋ねた。
「……」
「え? 何?」
 ダリルが体を起こし、俺に覆い被さるようにして耳を寄せた。
「もう一回」
 しばらくそうしていたが、俺が口を噤んだままなのに気づくと元に戻った。
「言いたくないこと?」
 そうではなかったが、現実のものとして『飛空艇』を捉えているだろうこいつと、夢のまた夢のような存在として考えている俺とでは、あまりに桁が違いすぎて言い難かった。
「まぁ、いいわ」
 ダリルはするりとシーツを抜け出した。急に背中が寒くなって、俺は無意識に小さく身震いする。そっと寝返りを打って、ちらりとその姿を盗み見た。
 服や装飾品なんかで飾り立てて、豪華で煌びやかな人間は山ほど見たことがあったが、こいつは違うと俺は思った。何も身に着けていなくても、身体からそういう匂いが立ち昇るような人間もいるのだと。
「あんたも、やめた方がいいぜ」
 俺は、一つだけ敵を取ろうと口を開いた。
「何が?」
 服を着ていたあいつは、顔を上げて俺を見た。
「脂ぎった中年オヤジと寝るのはやめた方がいいって話」
 ダリルは今度こそ音がしそうなほどきょとんとした顔をしたが、またゲラゲラと笑い出した。
「あたしも一緒よ」
 笑いながら、あいつは言った。
「あたしも、あんたと一緒でお金が必要なの」



「あたしはダリルっていうの」
 別れしな、あいつは不意にそう口にした。
「また会えるといいわね、坊や」
「セッツァー」
 俺はぶっきら棒に訂正した。
「坊やじゃなくてセッツァーだ」
「ふぅん」
 ダリルは指先で俺の顎に触れ、クスリと笑った。
「そういう名前なの」
 ちゅ、と音を立てて口付けると、ダリルは
「可愛くない名前ね」
 そう言って、またクスリと笑った。
「『坊や』の方がピッタリに思えるけど」
「……ふざけんな」
 俺が眉間に皺を寄せて不快感を示すと、ダリルはニコニコと頭を撫でてきた。
「あんたがあそこで雇われるなら、また指名してもいいわ」
 ホントは付き合いで一回だけのつもりだったんだけど、とダリルは付け加えた。
「俺は真っ平ごめんだぜ」
「あら、でもお金が要るんでしょう?」
 ダリルはドアを開けた。
「エンジン造り、頑張ってね」



 夜風が冷たくて、俺は無意識に首を竦め、背中を丸めて歩いた。
 気付いていたのかと、俺は考えていた。
 どうして気付いていたのだろうと首を傾げたが、答えは出なかった。
 今から思えば、たぶんオイルか何かの匂いがしたのだろう。
 俺は、あいつの言う「金持ちで羽振りがよくて話が上手い男」たちとは違い、コロンなどといった洒落たものは知らなかった。









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