<4>
マッシュがモブリズを訪れ、渡りに船と、セッツァーやリルムと一緒にフィガロへ帰っていった。
ティナはまた、フィガロへ行く気はないと手紙を書いた。
そして、いつもと違うことを一行だけ書いてみた。
「いつか私がフィガロへ行く気になるのを待っているなら、そんなことはやめて。きっと、そんな日は永遠に来ないから」
そう書いてから、なんだかとても酷いことをしているような気がして、ティナは溜め息を吐いた。
側に行きたくないわけではなく、モブリズを離れるわけにはいかないのだ。だから、そのことをはっきり伝えるべきだと思った。
そうでないと、セッツァーの言う『思わせぶりな態度』になってしまう。
数日後、ティナはその一行がどれだけの効果をもたらすのかを、はっきりと知る。
朝もやの中、ティナは朝一番の水汲みに出かけた。天気はあまり良くなく、今にも雨が零れてきそうな空の色だった。
モブリズ一早起きなのはティナだった。子供たちが起き出す前の時間、泉までの散歩はティナにとって楽しみの一つでもあった。
晴れていたら良かったのに。ティナは空を見上げてそう思った。
雨の日も晴れの日と同じくらい好きだったけれど、どんよりした空の色はどうしても好きになれなかった。
そして、ティナは気配を感じたのだ。人の気配。子供たちの誰でもない。
はっとして、彼女は立ち止まった。こんな時間から、行商の商人が来るわけがない。手にしていた桶を足元に落とし、護身用の短剣に手を掛けた。
振り向くと、霧の中に人影が見えた。
右手に緊張が走って、そんな感覚はとても久しぶりだったから。
恐れた。
怖かったのは、その人の気配を知っていたのに――忘れていたことだった。
「エドガー……?」
はっきりとは見えなかった。しかし、そのシルエットは他の誰でもないとティナに示していた。
彼は一言も答えなかった。その代わりに、一歩ずつ彼女に近づいた。
「どうしたの……?」
夢を見ているのではないかと、ティナは思った。エドガーがこんなところにいるはずがないと。
だってエドガーはフィガロで、一日の休みもない王様の仕事をしているはずなのに――!
「エドガーなんでしょう?」
まだはっきりとは見えなかったが、段々髪の色やマントの色が明らかになってきた。
しかし、エドガーはまだ黙ったままだった。数歩歩くと、それっきり歩くのをやめてしまう。
もどかしくなって、ティナは駆け寄った。
確かに彼だった。二年前、あの戦いが終わって、笑顔で別れた日と同じエドガーだった。
「どうしてモブリズにいるの、エドガー?」
エドガーはまだ黙ったままだった。ティナは辛抱強く、答えが返ってくるのを待った。
「……ティナ」
二年ぶりに、呼ばれたその声も変わってはいないのに。
「迎えに来たんだよ、君を」
「エドガー……! ダメよ、手紙にも書いたでしょう? 私はこの村を離れるわけにはいかないの」
「永遠に?」
「そう、永遠に」
そう答えた途端、エドガーは目を閉じてしまった。
表情は穏やかなのに、どうしてか空気がピリピリと神経質に震えた気がした。ティナは怖くなって、自分の腕を自分で抱き締めた。
「ティナ、子供たちはいつか大きくなるよ」
「分かってるわ――私ね、エドガー。この村に孤児院を作りたいの」
「……孤児院?」
エドガーは目を開けた。
「親を亡くした子供たちをここに集めて、面倒を看ていきたいの。ずっと、そうしていくって決めたのよ。だからフィガロへは行けないの」
ごめんなさい、ティナははっきりした声でそう言った。
エドガーは、まるで初めてティナを見た時と同じような目をして、ティナを見ていた。びっくりして丸く見開かれた青い瞳は、あまり見ることはできないものだった。
「どうしてそう手紙に書いてくれなかったんだい?」
「そう書いたら……あなたはきっと、フィガロに孤児院を作ればいいって言うわ」
「言うさ、今だって言うよ」
「それではダメなの」
ティナは頭を振った。
「フィガロではダメなの。ここでなければダメなのよ。フィガロは裕福で、希望に満ち溢れていて、傷ついている人には眩しすぎるの。こんな風に優しい村でなければダメなのよ、エドガー」
エドガーの表情が僅かに険しくなったのを、俯いていたティナは見ずに済んだ。
フィガロを否定することは、エドガーを否定するのと同じことだと、そんなことを、ティナは微塵も思っていなかった。
エドガーは、ティナにとってはただの『エドガー』であり、『フィガロの国王』ではなかったから。彼女にそんな発想はなかった。
「……よく分かったよ」
妙に冷えた声色だと思った。
「もう無理強いはしない」
エドガーがマントを巻き直すのを、ティナは一歩後ずさって見つめた。
「でも、フィガロへ来たいと思ったらいつでも来てくれていいんだよ。そのことは忘れないで」
ティナはええ、と頷いた。
「ありがとう、エドガー」
「それじゃ」
エドガーが手綱を引くと、黄色いチョコボが一匹霧の中から現れた。
「え? エドガー、もう行ってしまうの?」
だって久しぶりなのに、まだ何も話してないわ。ティナがそう言うと、エドガーは微かに苦笑した。
「これでも、結構忙しい身なんだ」
「それは、知ってるけど……」
「せっかくのお誘いなのに、残念だけど」
ひらりとチョコボに跨ると、エドガーは悪戯っぽいウィンクを残して去って行った。
ティナは困惑して、唇に指を当てたままそれを見送った。
***
フィガロは大騒ぎになっていた。
朝一番で国王の寝所を訪れる神官が、最初にそれを発見した。
「……こんな古典的な方法を使うとは……」
神官長が肩を落としたのも無理はなかった。エドガーが眠っていたはずのベッドには、代わりに大きな枕が寝そべっていて、それが人型に布団を押し上げていた。
「全く進歩がないということですか」
マッシュが隣で苦笑したが、彼女は意にも介さなかった。
「覚えておりますよ、あなた方がお小さい頃、こうやってよくお部屋を抜け出しましたね」
「そして、それで必ず」
大臣が笑いながら口を挟んだ。
「マッシュ様が熱を出されて、寝込まれるのでしょう?」
「そうですとも」
神官長の声が刺々しく、マッシュはますます苦い顔をした。
「寝間の薄着でふらふらと、夜の砂漠を散歩などするからですよ」
「……ごめんって、フランセスカ」
マッシュはえへへ、と笑ってごまかした。
そんな何十年も前の話を出されても困る。
「しかし、今日のご予定はどうしましょうか」
大臣はうーんと唸り声を上げて、そう言った。
まさか、エドガー陛下が失踪されたなどとは発表できまい。
「何とかします」
後ろの方で成り行きを見守っていたセリスが涼やかな声でそう言ったので、一同は彼女を振り向いた。
「それと、彼をお借りします」
セリスがマッシュの腕を引いたので、彼は少し戸惑った顔をした。
「何?」
「あなた、一日くらい代理を務めたって罰は当たらないわ」
「げ」
「エドガーは腹痛で寝込んでるってことにしましょ」
それも古典的な言い訳だった。何となく、マッシュは脱力してしまった。
「フィガロ国王謎の失踪……失意の帰還、か」
「からかうのはやめなさいったら、セッツァー」
セリスが釘を刺した。
エドガーは午後にはフィガロへ戻ってきたが、彼らには酷く落ち込んでいるように見えた。
「何があったと思う?」
エドガーより一足先に城へ戻っていたロックが、誰にともなくそう訊いた。
「『腹痛』だろ」
セッツァーはふふん、と鼻で笑った。
「何それ、腹痛?」
「……こっちの話」
セリスが手にしていた書類でセッツァーの頭を小突きながら、そう言った。
「何があったかなんて、そんなの一つしかないんじゃないの?」
リルムが筆を滑らせながら話に割って入り、その言葉に、残りの三人が顔を見合わせた。
「……いやぁ、まさかだろ」
「でも、あり得なくはないな」
セッツァーはふむ、と頷いた。
「あいつが抜け出したのが昨日の夜中だったとして」
「戻ってきたのは午後一番」
セリスが口を挟んだ。
「丁度往復できる」
「……こことモブリズを、ね」
「げ」
ロックが潰れた蛙のような声を出した。
「生々しいな、それ」
「ティナはどうしてもフィガロには来たくないらしいよ」
相変わらずさらさらと手を動かしながら、リルムが言った。
「でも、色男のことを嫌いって訳じゃあないみたいだけどね」
「いっそ『嫌い』の方が楽ってこともあるからな」
セッツァーが煙草に火を点けながらそう言った。
「ここ、禁煙よ」
セリスが取り上げた。
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