<10>



 正攻法が功を奏すなんて知らなかった。あながち、あの馬鹿も間違っちゃいないらしい。
 セッツァーはそんなことを考えながら、ファルコンの舵を握っていた。
 今、彼らは五年前にダリルを拾った男の居場所へ向かっていた。
 セッツァーが人生で一番真剣になったことがダリルの心に響いたのか何なのか、彼女は「店には帰らない」と言い出した。
 ただし、借金は必ず返すと言って聞かなかった。
「店に帰らないってこと以外は、私の気が済むようにさせて」
 と、そう言った。


 ダリルは甲板の先端から、遠くの山を見ていた。
 セッツァーがちらりと伺うと、長い金髪が顔にかかるのを払いながら、溜め息をついていた。
 やはり心外なのだろうか。自分の力で片を付けるのが好きな女だった。
「ダリル」
 呼ぶと、すぐに振り向く。
 思えば、ダリルと呼ばれて反応する時間は、ここ三週間で格段に早くなっていた。
「何?」
「自由になった後はどうするんだ」
「……まだ考えてない」
 眉間に皺を寄せ、そう答えた。
「自由になるなんて考えたこともなかったから」
 ただ、と小さく呟いた言葉が風に浚われそうでセッツァーは耳をそばだてた。
「あんたと過ごした時間は、本当に楽しかったわ」
 生まれて初めて……たぶん。
 昔のことは思い出せないけれど、この男と過ごした時間は、きっと人生の中で一番楽しい時間だったに違いない。
 大抵の客は……というか、マスターも含めた男たちのほとんど全員が、彼女を蔑み、見下した。彼女は自分が酷く下等な人間だと思っていたし、そこに疑問の余地はなかった。
 でも、セッツァーは違った。彼女を最上級の人間として扱い、実際心底そう思っているらしかった。
 それは彼の『過去』から来る幻想のせいだと思っていたが、どんなに醜い自分を知らしめても、彼の態度が変わることはなかった。
 居心地がよかった。気分もよかった。そして、そんな感想を抱いている自分に嫌気が差した。
 だから逃げ出したかったし、その一方で、元の下等な自分に戻るのも恐ろしかった。
 ジレンマはそこから来ていたのだろう。

 話を聞いている限り、昔だってそう高い位置にいたわけではなかったはず。
 だから、彼の側にいるのは楽しかった。人生で一番。


 セッツァーが何も答えないので、ダリルは再び遠くの山脈を眺めた。
 霞がかったそこが、紫色に揺れていた。



***



 セッツァーがダリルを連れて現れると、店主の男は怪訝な表情になった。
「デイジー。その客にまだ用か?」
「ええ」
 感情を込めない声色で、彼女は短く答えた。
「例の書類を出せ」
 代わりに、セッツァーがそう要求した。
「サインしてやる」
 マスターはダリルを見た。
「正気か」
「ええ」
「本気で、ここから逃れられると思ってるのか」
「分からないわ」
「俺から逃れられると?」
 ダリルの翡翠色の瞳がすぅ、と細められた。
「そっちこそ、あたしを雁字搦めに捕まえていられるとでも思ったの?」
 その瞬間、男の顔が歪んだ。
「あんたには感謝してるけど、こんなところに縛り付けられるのはもう二度とごめんよ」
「デイジー」
「あたしの名前はダリル。根を張って花を咲かせるのは、もう終わり」
 沈黙が訪れた。カウンターに金の入った袋を置こうとセッツァーが手を伸ばした瞬間、マスターの体が横に揺れた。
 ダリルが小さく叫ぶのと、部屋中に血の臭いが充満するのは同時だった。そんなものをどうやって隠して持っていたのか、薪を割るには大きすぎる斧。
「セッ……!」
「先に出ろ」
「だって……」
「いいから」
 男の両目に浮かんでいるのは、明らかな殺意だった。そういう目を死ぬほど見てきたセッツァーには、はっきりと分かった。それほどの脅威でもない。ただの素人だ。
 ただ、利き腕を……どうして知っていたんだ。この世界は右利きの人間が9割というじゃないか。クソ。
「デイジーに何を吹き込んだ」
 興奮のあまり、声が震えている。
「そんなことを言う子じゃない。この子が恩を忘れるわけがない。その恩義が、いつしか愛情に変わった筈だった」
 ここにもハーレクインか。セッツァーは溜め息を吐き出した。
「こいつの演技自慢は知ってんだろうがよ」
 痺れたような左手がもどかしくて、吐く息が苦しい。
「その子に何をした」
 答えるのも面倒くさくて、セッツァーは黙ったままだった。代わりに、ダリルの体を押して、外へ出るように促す。
 ダリルは動かない。
「渡すわけにはいかない!」
「勝手言わないでよ」
「ダリル、いいから先に――」
「お金を返したらそれでお終いよ。そうでしょ?」
「そういうわけにはいかない」
 憎悪の目を向けられて、ダリルが一瞬怯んだのが布越しに伝わる。
 へぇ……こいつにも、怖いものがあったんだな。
「誰にも渡さない……!」
 振り上げた斧から血沫が飛ぶ。セッツァーが眉を顰めた。
「まるで死神だな」


 ドアまで3メートル。扉は閉まっている。
 窓まで1メートル。こっちの方が早いか?
 でも、怪我はさせたくない。
 やっぱりドアか。

 動かそうとした左手が鈍い痛みを訴えた。
 まったく、こんな時に限って面倒だな。右手を出すんだった。


 ダリルがセッツァーの上着を掴み、ドアの方向へ引っ張ろうとする。
 指が震えている。怖いのか? お前、昔は怖いものなんて何もないような顔をして、危険なフライトを続けていたんだぞ。


 左手はまるで動かなかった。セッツァーが一歩後ずさってダリルを背中に隠すのと、再び斧が振り下ろされるのはほぼ同時だった。



 そして、ドアが蹴破られる音が響いたのも、また同時だった。







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