<2>



「何のつもり?!」
「金は払ったんだから文句ないだろ」
 確かに、彼女に文句を言うことはできなかった。
 セッツァーはとにかく一秒でも早く、その場所から彼女を連れ出したかった。
 彼がそこへ足を踏み入れたのはまさに「その為」ではあったが、まさかそこで追い続けた背中を見つけるとは思っていなかった。
「どうしてあんな場所にいた」
 さっき掴んだままの手を引っ張って歩きながら、セッツァーは不機嫌な声色で問い質した。
「私の仕事だから」
「そんなことは見れば分かるし聞いてない」
 不機嫌そうな男の横顔を伺いながら、ダリルは数瞬答えを逡巡した。
「あの人に、拾われたから」
「マスターって呼んでた奴か?」
「そうよ。命の恩人なの」
 どこが恩人だ、とセッツァーは毒づいた。
「あの人が拾ってくれなかったら、私は死んでたわ」
「どういう意味だ」
「事故に遭ってね、死ぬか生きるかの酷い状態だったの。文字通りこの世とあの世の間を行ったり来たりして」
 まるで天気の話でもしているかのように、彼女は気軽な調子でそう言った。
「何ヶ月も寝たきりだったけど、あの人が良くしてくれたのよ」
 それで、その間の医療費を払えとかなんだとかいう理由で、態よく縛り付けられたということだ……娼館に!
 セッツァーは忌々しそうに舌打ちした。
「あんたは私のことを知ってるの?」
 またその質問だ。
「お前は俺を知らないのか」
「……分からないわ」
 郊外に泊められていた飛空艇が見えて、彼女はふと足を止めた。
「あれは?」
「ファルコンだ」
「ファルコン?」
 始めて見るものを見るような目だった。
「ダリル? ふざけてるんじゃねぇのか?」
 彼女は頭を振った。
「何も覚えてないの」
「何だと……?」
「ダリルっていうのは、私の名前なの?」
 緑の目は、本当に冗談を言っているようには見えなかった。
「あんたは誰なの?」



 ようやくセッツァーの気が鎮まって、ダリルの話を呑み込めるようになるには、それから更に時間がかかった。
 セッツァーはダリルに船室や甲板やエンジンルームを見せて回ったが、ダリルは一様に「ふぅん」といった感じだった。
 船長室へ連れて行き――そこは、前の船長が使っていたままになっていた――、彼女が好んだ種類の酒をグラスに注いで渡すと、初めて反応があった。
「どうして私の好みを知ってるの?」
「……だから」
 面倒なことになった。セッツァーは煙草に火を点けると、乱暴に自分の銀髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「本当に、私を知ってるのね」
 ダリルはグラスに口を付けながらそう言った。記憶は失われても、酒の呑み方は変わっていなかった。
「あんたはこの艇のオーナーで、世界最速の女だったんだ」
「へぇ」
「俺はあんたに敵わなくて、いつもあんたのケツばっかり追いかけてた」
「あら」
 ダリルは可笑しそうに笑った。
「それって駄洒落?」
 セッツァーは眉を顰めて不快な顔をした。
「……そうだよ、俺はあんたのケツを追いかけてたんだよ」
 どっちの意味でもな。セッツァーが不承不承にそれを認めると、ダリルは声を上げて笑った。
「面白い子ね」
「……前もそんなこと言ってたな」
「じゃぁ、変わらないんだ」
 最後にくすりと笑って、ダリルはそう言った。


 どうだろうか。


 きょろきょろと船室を見回すダリルに目を向けながら、セッツァーは考えた。
 たぶん、こいつが知っていた『セッツァー・ギャッビアーニ』と、今の俺とはほとんど別人と言ってもいいんじゃないだろうか。
 世界を救うために命を懸けたり、惚れた女のために野郎を殴ったり。
 ――前の俺ならありえねぇ。
「いい部屋ね」
 気付くと、ダリルがあの緑の目でじっと見つめていた。
「好きに使えばいいさ」
「でも、ここってあんたの部屋じゃないの?」
「『お前の』部屋なんだよ……ずっと前からな」



***



「これから三週間、お前にはこの艇で暮らしてもらう」
 ダリルが部屋の中を見て回る間に、セッツァーは今後のことを説明した。
「風呂もある、着替えはそのタンスの中身を好きなように使え。飯の心配もしなくていい」
「ふぅん」
 好みの衣服がなかったのか、タンスを覗いて型の良い眉を顰めた。さすがに、かつて彼女が着ていた服は墜落の時に全部ダメになっていたので、今はダリルの墓に埋葬する時にセッツァーが独断と偏見で選んだ服が入っていた。
「……サイズはたぶん合っているはずだ」
「何それ、気持ち悪い」
「気に入らないなら他の町で好きなものを買っていい。今日はとりあえずその中のモンで我慢してくれ」
 ダリルはじーっとセッツァーを見た。
「何だよ」
「あんた、金持ちなの?」
「……まぁ、人並みにはな」
「さっきも思ったけど、あんな風に買ってく人は見たことないよ」
 セッツァーはちらりと目を上げた。
「お前じゃなきゃあんなことはしない」
「へぇ」
 ダリルはタンスを離れて、ふわりとソファに腰掛けた。
「よっぽど、惚れてたんだね」
 セッツァーは黙ったまま、酒を一口含んだだけだった。
「ねぇ、また会えて嬉しい?」
 そう言って、するりとセッツァーの首に腕を回した。
「それとも、がっかり?」
 セッツァーはダリルの顔をまじまじと見つめた。
 変わっていなかった。
 妖艶な笑い方まで変わっていなかった。
 でも、前はこんな風に男に媚びたりしなかった……。
「一つ言っておく」
 首に巻きついた細い腕を少し荒っぽく毟り取ると、セッツァーは体を起こしてグラスをテーブルへ置く。
「お前とどうこうする気はない」
 途端に、ダリルはきょとんと目を丸めた。
「……何ですって?」
「金でお前を買う気はない。そういうことだ」
「だってあれだけの大金払ったのよ? どういう意味? もしかしてソッチの気アリなわけ?」
 思わずガクッと項垂れる。よく言うぜ。お前は覚えてねぇだろうが、こっちは散々振り回されて泣かされて……
「言っただろ、お前は俺の目標だった。そんな相手を金で買う気になるか?」
「……ならない、かも」
「そういうわけだから、とにかく三週間何をしても自由だし、欲しいものがあれば買えばいい。ただ」
 セッツァーは言葉を継ぐ直前、不快そうに僅かに眉を顰めた。
「ただ、あの店に帰ることは許さない。それだけは覚えておけ」




 そうして、奇妙な共同生活は始まった。
 以前は朝が弱かったダリルが、卵を割ったこともないような彼女が、朝からキッチンで朝食の用意をしているのは衝撃だった。
「だってあれだけの大金だもの、その分何かしないと気が済まないじゃない」
 とはダリルの言。
 心配した朝食は、ちゃんと食べられるものになっていた。
「あの店ではね、朝は交代で準備するの。最初はなかなか思い出せなくて大変だったけどね〜」
 ……それは、思い出せないんじゃなくて元から知らなかったんだろうが、バカタレ。
 それから、男ヤモメの一人暮らしで溜まった埃も洗濯物も片付けてくれた。
「気味が悪ぃな」
 煙草を吸いながら、セッツァーはそう呟いた。
「言うじゃないさ」
「年食って早起きの働き者にでもなったのか?」
 ダリルはくるりと振り向いて、にやっと嫌な笑い方をした。
「あんたこそ、後退してガキの早寝になったんじゃないの?」
 思わず煙に咽る。こういうところは本当に変わっていない。
「お前のプライドを挫いたなら悪かったよ」
 ふぅ、と煙を吐きながら、セッツァーはそう呟いた。
「まぁ……昔お前も俺に同じようなことしたけどな」
 白いシャツを順繰りに干しながら、ダリルは「ふぅん」と返事しただけで、何も興味を持たなかったらしかった。







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