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 一週間が過ぎるより一日早く、セッツァーはロックとセリスの新居へ戻ってきた。
 彼がフィガロへ駆け込むよりも前にエドガーに会い、彼の噂話を一頻りして再び旅立った男はまだ帰っていなかった。
「もう済んだの?」
 何が済んで何が片付くのか良く分からないなりにも、セリスはそう尋ねた。
「いや」
「うまくいかなかった?」
「まぁ、な」
 ダリルは機嫌の悪そうな顔で窓の外を見ていた。
「行くぞ」
 ちらりと、緑色の瞳がセッツァーを見る。
「どこへ?」
「あのいけ好かねぇ店だよ」
 それで、ダリルは思わず溜め息を漏らしたのだった。
 助かった、と思った気もしたし、やっぱり、とがっかりした気もした。
 立ち上がると、小さく頷いて見せる。


 それで全てが終わった、と、ダリルはそう思っていた。




「お前は、本当にあの店に帰りたいのか」
 ファルコンは停泊したままで、エンジン音の響かない船内は静まり返っていた。
 最後の確認のようにセッツァーがそう尋ねたのは、かなり長い沈黙が続いた後だった。
 セッツァーにしてみれば、最後の賭けなのだろう。
 これで女が首を縦に振らなければ、たぶん諦めて元の場所へ帰すつもりなのだ。
「どうしたいのか、正直に言ってみろよ」
 ダリルにはそれをうまく説明できる自信はなかった。第一、自分でも良く分かっていないのだ。
「あの子……セリス? だっけ」
 不意にそう口走ったダリルに、セッツァーが訝しげな目を向けた。
「あの子がね、言ってたの。自分が奪ったもののことを忘れたらいけないって」
 奪った、もの?
 セッツァーがますます理解不能な表情になった。
「私はあの事故までに何を奪ってきたのかなって……そんなこと考えてたわ」
「お前は、誰からも何も奪っちゃいないさ」
 そう言うと、ダリルは首を横に振る。
「奪ったのよ。確かに、奪っていたの。ずっと奪い続けていたのよ」
 ますます意味が分からなくて、眉間に皺を寄せたまま、セッツァーは黙った。
「私は、あなたから時間を奪っていたの」
「時間? 俺のか?」
「そうよ」
「奪われた覚えはねぇぞ」
 奪われたもんなら別にあるけどな、と、セッツァーは冗談交じりにそう言った。
 しかし、ダリルは笑いもしなかった。
「奪ったのよ。どれくらい長い時間か分からないくらい、長い時間を奪い続けてきたの。そして私はそれを忘れてしまった。忘れたらいけないのに、全部忘れてしまったのよ」
 だから、あなたと一緒にはいられない。それが私の答えなの。
 ダリルはそう言うと、ぴたりと口を閉じた。
 セッツァーもしばらく黙っていたので、ファルコンにはまた静かな時間が流れた。
 俯いていたダリルは、カチリとライターの音が響いたのを聞いて、顔を上げた。
「どうすべきか考えろとは言ってない」
 煙が揺れる。
「ついでに、俺に遠慮しろとも言ってない。お前がどうしたいのか、希望を聞いてるんだ」
「どうしたいかなんて……」
 分からないわ、そう言おうと思ったけれど、得策ではないので止めた。
 その代わりに、小さく息を吸ってこう答えた。
「希望なんてないわ」
「何もないのか」
「ないわ」
「どこかへ行きたいとか、これから何をしたいとか、こんな所に住みたいとか、何もないのか」
「何もない」
 それから、ダリルは一瞬惑って、付け加えた。
「……いいえ。一つだけ、あるわ」
「何だ」
 セッツァーが身を乗り出した。
 その唇から煙草を抜き取ると、ダリルは空いた隙間を自分の唇で塞いだ。
「仕事をさせて」



***



「そのつもりはないと言っただろう」
 セッツァーが困惑気味の表情でそう呟いた。ダリルはそんなもの聞いていなかったし、返事もしなかった。
 そのまま肩を押して倒し、挑戦的な眼差しで上から顔を覗き込んでやる。
 ダリルは前からそういうのが得意だった。客を取っても無意識にいつもそうなった。
 ずっと前から得意だったのかどうかは分からない。或いは、彼なら知っているのかもしれないけれど。
 セッツァーは何も言わずにダリルを見上げていた。
「最後の夜だもの」
 ダリルはゆっくりと、そう囁いた。
「もういいじゃない? ゲームは終わり」
「ダリル」
 ゲームをしていたつもりはない、とセッツァーが言う。
「最後の夜だもの」
 一度死んだはずの女が生き返って、また元の地獄へ戻る最後の夜。
 だから、今日くらいは。
 あんたが愛したあの女になってもいい。そう、思った。


               *


 不意に目が覚めて、セッツァーはベッドの上に身を起こした。
 邪魔な髪を掻き揚げ、小さく溜め息を吐く。
 それから、傍らで惰眠を貪っている女を眺めた。肌蹴たままの背中にシーツを被せる。
 そんなつもりがない男を、そんなつもりにさせるのはそう難しいことじゃない。
 ダリルはそういうことが昔から得手だったし、それは今も変わっていなかった。いや、前より巧いくらいかもしれない。
 とは言え、セッツァーとて昔のままではない。うっかり本気になってしまったのは、ダリルが発したたった一言のせいだ。
 どうにも、あの掠れた声に弱い。
「結局は餓鬼のままじゃねぇか……クソ」
 思わず口に出して呟いたら、枕の方向からクスクスと笑いが漏れてきた。
「起きたのか」
「思い出したのよ、一つだけ」
 セッツァーが眉間に皺を寄せて「あ?」と訊く。
「とても可愛い男の子がいたの。名前も顔も思い出せないけど、とにかく可愛い坊や」
 ダリルは枕に突っ伏したまま、くぐもった声でそう言った。
「あんたは、その子によく似てるわ」
「うるせぇ」
 セッツァーは毒づいて、ベッドを抜け出そうと動いた。
 しかし、腕に巻きついた細いものがそれをさせなかった。
「私は、その子がとっても好きだった」
 起き上がったダリルは、傷だらけの背中に額を預けて囁いた。
「全部独占したいくらい、好きだったわ」
 セッツァーは振り向きもせず、しかし彼女から離れていくこともなく、ただ黙ったままだった。
 どんな顔をしているのか、ダリルには想像できなかった。


「さよなら」


 最後にそう一言付け加え、先にベッドを抜け出した。







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