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 ダリルがバスルームに行っている間、セッツァーは「どうしようか」と考えあぐねた。
 どうしても店に戻るのを引き止めたかった。
 どんな手を使ってでも引き止めたかったけれど、どんな手を使ったとしても、昔の女に執着しているだけの、ただの格好悪い男にしかなれなかった。
 そう、彼が今まで一番馬鹿にしてきたようなタイプ、の。
 ――どうせ、格好悪いなら。
 五年間、伝えたくても伝えようがなかった言葉を、言ってしまいたい。
 彼女に初めて出会ってからずっと、喉元に引っかかったままだったあの言葉を。
「お風呂空いたけど」
 ダリルが濡れ髪のまま戻ってきた。
「煙草、多いんじゃないの?」
 確かに、天井辺りがひどく煙って見えた。
「お前が教えたんだぜ」
 セッツァーはぼんやりと煙を見ながらそう呟いた。
「そう」
 ダリルは簡単に一言返事をして、タオルで髪を拭いた。
「俺は、お前に追いつきたくて必死だった」
「そうだったみたいね」
「目標だったんだよ……遠くて手も届かないような」
 ダリルは答えず、さわさわと頭を拭く音だけが響いていた。
「お前は俺の目標で、希望で、ただ一人の」
 この世にただ一人の、女だった。
 それが突然、目の前から忽然と消えた。
 その喪失感を、その絶望感を、どうやっても言葉にはできなかった。
 我武者羅に行方を追った。死んだことを認めるまでに一年かかった。
 ファルコンを修理して、墓に沈めた。そうして、心に空いた巨大な穴にも蓋をした。
 蓋をしたまま、まるで朽ち果てるのを待っているようだった。
「――俺は」
「黙って」
 タオルの隙間から、ダリルの掠れた声がそう命じた。
「その人はもう死んだの。言ったでしょ」
「死んでない」
 思わず、腕を掴んだ。血の通った暖かな腕を。
「ここにいるじゃねぇか……ちゃんと、ここに」
 まるでしがみ付いているみたいだ――ひでぇ体たらくだぜ。
 頭のどこかでそう思ったけれど。セッツァーには、その腕を離すことができなかった。


 あの日、この腕を離さなければ。
 降参と認めさせて居さえすれば。
 ダリルは事故を起こさなかった。俺は五年も彷徨わずに済んだ。

 ダリルにそれを認めさせられなかったのは、怖かったから。
 彼女の気高い誇りに踏み込むことができなかった。
 彼女の孤高な美しさを踏み躙ることができなかった。

 ――俺に、そんな臆病心さえなければ。

 ダリルは、誇りを失わずに済んだ。
 少なくとも、気高さだけは失わなかった、はずだった。



「やめて」
 振り払おうとするのを、更に力を込めて握った。
「痛い」
「ダリル」
 そのまま引き寄せて、頭を掻き抱いた。
 生きていたのだ。激しい喪失感に自暴自棄になっていた時も、彼女の墓を掘っていた時も、彼女はちゃんとこの世に生きていた。
 その事実が、今になって急激にセッツァーの心を満たしていった。

 タオルが滑って落ち、まだ濡れて冷たい髪がばさりと額にかかった。

「ここにいてくれなくてもいい」
 濡れ髪に押し付けた頬が、急速に温度を失う。
「俺の側にいてくれなくてもいい」
 ダリルは黙ったまま、抱かれている。
「お前がいたい場所で、お前がやりたいように生きてくれればいいんだ」
 本心だった。元から、自分の側に置いておけるような女じゃなかった。
 ただ。
「あんな場所で……誇りを踏み躙られて生きていくなんて言うな」
「余計なお世――」
「頼むから」
「だから余計――」
「頼む」
 ダリルが、小さく息を吐いた。
「……セッツァー」
 そう呼んで、初めてその名を口にしたことに気付く。
 ダリルはしばらくそのことを逡巡した。


 こんなことになるから、思い出したくなかったのだろう。
 自分の今までを自分で否定しなければならないなんて、苦しすぎる。

 そう考えてみてから、それは彼にしても同じことだと思い当たった。
 ここで私が突っぱねたら、それこそ彼は今まで追い続けてきた全てを否定されることになるのだ。


 ――どうしたらいい?


 セッツァーはますます腕に力を込めた。もう絶対に離さないと、その腕は語っていた。







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