久方ぶりの彼の来訪を聞き、仕事を切り上げて部屋に戻ったのは夕暮れ間近の時刻だったのだろう。
 彼は、窓の下に置いたソファーに腰掛け、薄暗く澱んだ景色を眺めていた。
 その背中があまりに疲弊して儚げだったので、私は思わず息を呑んだ程だった。
 気配を感じたのだろうか、彼は静かに振り向いた。
「死んだ」
 たった一言。
 一瞬、驚きに声を失った私を、苦痛に揺らいだ瞳が見据えた。
「死んだんだ、レイチェル」
 その声音も、ただ空気を少し震わせただけで、消えた。



生と死の狭間で



「死んだって……どういうことだ」
「帝国が」
 一度、ロックは言葉を切った。
「帝国が、あいつの家を」
 もう一度言葉を切ると、それっきり彼は何も言わなくなった。
 生きる力が漲っていたはずのはしばみ色の瞳は、輝きを失い、苦悶の色に染まっていた。
 そんな彼を見るのは耐えられなかった。
「コーリンゲンで一悶着あったことは、聞いてる」
 うん、と小さく返事してみせる。
「巻き込まれたのか」
 頷く。
「……俺は、あいつを守ってやれなかった」
「それは、仕方のないことだろう」
「違う」
 不意に、強い声色で彼は言った。
「何があっても、傍を離れるべきじゃなかったんだ」
「しかし……」
 出て行けと言ったのは、彼女の方だったのに。
「全部、俺が悪いんだ」
「ロック」
「俺が……」
 両手に顔を埋めると、小さく、苦しげに呻いた。
 そんな彼に対し、どうしてやることも出来ない自分が悔やまれた。例え一国を立派に治めることが出来たとしても、目の前で苦しんでいる人一人救えないのなら、何の意味もなかった。
「お前のせいじゃない」
 こんな言葉しか出てこない自分が恨めしかった。
「お前に選択肢はなかったんだ、お前が悪いんじゃない」
 そう。悪いのは、帝国だ。
「エドガー」
 ロックは顔を上げ、そしてソファーから立ち上がった。
「俺は、リターナーに加わるつもりだ」
 決意を灯した瞳は、静かにこちらの反応を待っていた。
 しかし私には、何かを言うことはできなかった。いつかこの日が来るのだろうと、それだけは予感していたから。
「敵同士になったら……もう二度と、お前に会えなくなるかもしれないけど」
 ロックは俯いた。この日初めて、いつもの少年のような表情が覗く。
「いや」
 否定の言葉に、彼は顔を上げた。
「そんなことはないさ」
 まじまじと私の顔を見つめたまま、その言葉が意味するところを、彼はまだ知らなかった。

 帝国と同盟を結ぶこの国の王が、反帝国組織と手を組もうと考えているなどとは、まるで。

 私たちは今日も、生と死の狭間で生きている。


***


「バナン様、呼んだか?」
「口は慎めと何度言ったらわかる、ドロボウめが」
「ドロボウじゃねぇっての! 俺はトレジャーハンター」
「どっちでも同じじゃ」
「もうよい、ジュン」
 初老の男は肩を竦め、やれやれとため息をついた。
「ロック。おぬしに、リターナーのメンバーとしての初仕事じゃ」
「ふぅん」
 頬杖をつき、彼は好奇心に輝いた目でリーダーを見つめた。
 あれから随分時間を要したが、ようやくこの光が戻ってきたかと、バナンは安堵していた。
「フィガロ国王に会って、この書簡を渡してきて欲しい」
「……へ?」
「そう間抜けな顔をするな」
 ぽかんと呆けた顔で、ロックはバナンを見ていた。
「フィガロ……?」
「そうじゃ。伝書鳥で頻繁に連絡を取り合うのは危険を伴うのでな」
「フィガロが……何で?」
「フィガロ国のエドガー王が、我々に組したいと申し出てきておるのだ」
 口を挟んだのは、ロックよりずっと前からバナンの傍に仕えている男。さっきも彼に小言を呈した、中年男のジュンだ。
「真意を確かめたいし、おぬしが適任じゃろう。人を見る目だけは確かじゃからな」
 だけ、というところにやたらとアクセントを置いて、バナンは言った。
 しかし、ロックは他の事に気を取られているようで、珍しく反論しなかった。


 もう二度と会わないと思っていたのに。
 踏み慣れた砂漠を越え、ロックは小さく息を吐いた。
 帝国に協力している彼とは、敵同士になってしまうと思っていたのに。
 どうしてわざわざ帝国に反抗しようなどと思ったのだろう。リスクは大きいし、フィガロに何か得があるとも思えないし。
 まさかあのクールを絵に描いたような男が、自分への友情のためにそんなことをするとは思えないし。
 あいつの立場は分かってた。
 だからもう、二度と会わないと思っていたのに。


 これを見せれば城内へ通してくれるとバナンから渡された、竜の紋章の入った書簡入れを見せるまでもなく、門番の兵士は道を空けた。久しぶりだな、と彼は小さく呟いた。
 あれから一年、その間一度もこの地を訪れなかった。
 勝手知ったる石畳を抜ける。
 妙な郷愁に、ロックは眩暈を覚えた。
 思えば、誰に頼ることもなく生きてきた自分が、唯一、愚痴をこぼせる相手だった。弱みを見せることのできる相手だった。
 まるで、小鳥が羽を休めるために止まり木に止まるように、自分はこの場所に止まったのだ。


「ロック」
 頭の上の方から呼ばれて顔を上げると、面白そうにこちらを見ているエドガーの目とかち合った。
「遅かったじゃないか」
「エドガー!」
「バナン様の書簡は?」
 テラスの上から、彼は手を差し出した。
「……届くわけないだろ」
「なら、ここまで持って来い」
 キッとばかりに、ロックは青い目を睨み付けた。
「王様だからって威張るな! 俺はお前の召使じゃない!」
「ふむ。ドロボウ、だったかな?」
「……っ!」
 不覚にも涙が滲み出そうになって、ロックは俯いた。
 ずっと、いつもこんな風に他愛もないことでからかわれて、いつも勝てなくて、悔しくて。
 でも、本当は嬉しかった。家族も友人もない孤独な自分に、屈託なく笑いかけてくれたから。
 会えなくなると思ったら、それだけが自分の決心を揺るがしそうだった。
「ロック?」
 エドガーの声に不安の色が混じる。
「おい、本気で怒ったのか?」
 零れそうになった涙を気づかれないように、ロックはますます俯いた。
「待ってろ、今そこまで行くから」
 彼は、テラスから自室へ消えたらしかった。
 慌てて、ロックは涙を拭うと、空を仰いだ。雲一つない砂漠の青空は誰かの瞳に似て、相変わらず眩かった。


***


「もういいのか?」
「ああ――レイチェルは、逝っちまった」
「そうか」
 王様は、複雑そうな表情で俺を見ていた。
「で、これからどうする?」
「これから……か」

 ――これから。

 あいつは死んだ。
 俺は生きてる。
 生きてる人間は生きてる人間同士、傷つけあったり支えあったりしながら、それでもどうにか生きていかなきゃならない。

「俺の心は決まってる」
「へぇ」
「俺の心の中には、もう彼女しかいないんだ」
「……おやおや」
 エドガーは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「これはご馳走様」
「な……っ! そういう意味じゃなくて!」
 俺は拗ねて頬を膨らませた。
 こんなリアクションばっかりだから、いつまでも子供っぽいなんて馬鹿にされるのはわかっているけど。
「わかったわかった。どういう意味でも構わないから、早く行ってあげるといいよ。ヤキモキして待っているだろうからさ」
 彼はくつくつと、可笑しそうに笑った。

 そういえば、エドガーがあんな風に笑うところを見るのは久しぶりだな。

 そんな感慨を残しながら、俺はレイチェルの部屋を後にした。


 俺たちは今日も、生と死の狭間で生きている。



-Fin-









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