さらさらと流れていくそれは、まるで手応えのない感触。本当にそこに存在しているのか触って確かめねば判らないのに、雲に触れたらきっとこんな風だろうと想像する。
 存在しているのか、していないのか。
 まるで、判らない。



魔導の少女




 上手く纏められないのだと、少し居心地悪げに彼女は言った。
 バナンが呼んでいると伝えるために部屋へ行ってみると、途方に暮れたようにしてティナが座り込んでいた。
 右手にブラシ、左手に髪留めを握ったまま、鏡の前で一体どれくらいそうしていたのだろう。
 リターナーには無骨な兵士なら山ほどいたが、髪結いを手伝ってくれるような人材はいなかったらしい。
「貸してごらん」
 か細い右手からブラシを取り上げると、鏡の中で少し首を傾ける。
「やってあげるよ」
「……いいの?」
 尻込みするかと思ったが、気にしていないらしい。頓着しないのだろう、男に髪を触れられるなど、普通は困惑するものだ。
 とは言え、彼女に普通を求めるのは不毛というものだった。
 翡翠の色に近い髪の毛は細く、頼りなく、本当に彼女そのものを表すように不安定で、どこか異彩な雰囲気を放っていた。
「綺麗な髪だね」
 褒めてみると、「そうかな」と、ごく小声で合いの手を入れただけだった。
 無防備な少女。無知が故の無防備。
 なんて、不幸なんだろう。
「上手なのね」
 しばらく髪を梳いてから、最初に彼女に出会った時と同じように結い上げてやると、ティナはぽつりと呟いた。
「毎日してるからね」
 背中に垂らしている髪を示すと、
「お手伝いさんにしてもらうんじゃないの?」
 ティナは鏡越しにじっと見つめてくる。
「自分のことは自分でするよ」
 鏡に向かって微笑む。目が合った。
「意外?」
「……ええ」
 訊けば、正直に頷いた。
「ごめんなさい」
「どうして?」
 結い上げた髪を纏めて髪留めに通すと、ぱちりと音を立てて元の通りの髪型に留めてやる。
「明日からは、自分で出来るようにするわ」
 ティナは、そろりと手を伸ばして髪留めを確認すると、そう言った。
「残念だな、毎日してあげたいところなのに」
 鏡越しにこちらをじっと窺ったまま、冗談なのか本当なのかを判断するかのように、慎重な目で見つめてくる。
「自分でするわ」
 結局意味は推し量れなかったらしい。最後にそう念を押すと、ティナは立ち上がった。そのまま部屋を出て行こうとする。
「ティナ」
 呼ぶと、くるりと振り向く。結ったばかりの緑の髪がふわりとその後を追った。
「こういう時はね、ありがとうって言えばいいんだよ、ティナ」
 そう言えば、不思議そうな顔で見つめてくる。
「ごめんなさいと言うより、その方がいい」
「でも、迷惑をかけたら、ごめんなさいって言うんだと思ったけど……」
 蒼い目が揺れる。
 手探りの記憶。
「まぁ、それも間違ってはいないけどね」
 体勢を直してドアノブに手を掛け、ドアを開ける。
「ありがとうの方が、言われる側としても嬉しいかな」
 どうぞ、と手で促すと、ティナは吃驚したようにこちらを見上げた。
 ふわりと揺れる、髪。
「お先にどうぞ」
 ティナは一瞬逡巡した後、小さく言った。
「……ありがとう」
 にっこり笑いかけると、ティナも少しだけ唇の端を上げた。
「あのね、エドガー」
「なんだい?」
「言うのも、ありがとうの方が、気分がいいことが判ったわ」
 抑揚の薄い細い声は、それでもいつもより少しだけ感情を覗かせた。
「それは良かったな」
 広間で、ロックが「遅い」と文句を言っているのが見えて、少し笑うとティナの背を押した。
 さぁ、行こうと。



-Fin-









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